桜と吉野山

 長い歴史の流れとともに、吉野山の桜も栄枯盛衰を繰り返してきました。明治維新の大きな政治変動の嵐の中に巻きこまれて、修験道がまったく否定されてしまい、その本尊蔵王権現の御神木として尊ばれてきた吉野山の桜も、支えを失って荒廃の一途をたどりました。
 ところが、そのころから強力に推し進められた、富国強兵 日本精神の拠り所として桜の美しさと、散り際のいさぎ良さが採り上げられるようになり、ことに日露戦争の戦勝記念に、吉野山中の千本付近に桜の植裁が行われました。これが多くの人びとの愛国精神を呼び起して、より一層の桜の増植と吉野山の史跡の保護顕彰を目的とした、「財団法人吉野山保勝会」を設立しようという気運が高まってきました。
 この運動は、独り吉野山地元のみによるものではなく、時の吉野郡長谷原岸松氏ほか地元有識者五名の連書をもって、大正三年(一九一四)一月一日付で、当時の内務大臣原敬あてに設立申請書が提出され、大正五年十一月二日付内務大臣後藤新平から設立を許可されて、ここに財団法人財団法人吉野保勝会が発足しました。
 その寄付行為(会則)の第十六条で総裁、副総裁及び会長の設置を定め、総裁に徳川頼倫男爵、副総裁に木田川奎彦奈良県知事、会長に谷原郡長の跡を受けた、和田常太郎吉野郡長がそれぞれ就任しました。
 この間、財団法人吉野山保勝会設立の趣意を広く全国に呼びかけると、寄付金九千六百四円、桜の苗木千六百八十九本が寄せられ、この中には、北海道、岩手、宮城、福島、栃木、群馬、東京、長野、烏取、岡山、佐賀、熊本の各県から、また遠く満州国(現中国東北地方)の有志からの寄付もあったといいますから、いかに吉野山の桜に多くの人びとが関心を寄せていたかということがわかります。
 こうして植えられた桜も、生きものである以上病害虫に侵され、そこそこに衰弱した木が目立ってきました。そこで弱った桜をよみがえらせるために外科的手術を行うことになり、吉野山保勝会では昭和十二年三月に、文部省から三百八十円、奈良県から百九十円の補助金を受けて、弱っている七、八十年生の老木に発生している菌類を取り除き、病害虫の被害を受けている部分の樹皮を削って消毒剤を施し、コールタールを塗り重ねて防腐防水手当などを行いました。
 手当をした桜の囲りヘナタネ油のしぼりカスや石灰、堆肥むどを施して樹勢の回復と患部の治癒を待ちましたが、この再生手術ほ中の千本で二百四本、下の千本で三十九本、その他の地域で四十七本、合計二百九十本の桜に対して施術したと記録されています。同様な手当はこのあと、昭和十四年から十六年にかけても行われ、吉野山保勝会から奈良県に提出した結果報告書には、手当をした桜は目的どおりその後の腐朽を防ぎ、患部も内側から木質が盛り上がって樹勢はとみに回復し、年を経て開花もまた良好であったと記しています。