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 橋がかかるまでは、川幅が広く淀み流れる吉野川を渡るのは大変な事でした。大和平野の方からやってきて、吉野山へ上がるにはどこかで吉野川を渡らなければなりません。川を越えようとする人の安全をはかるために、初めて渡し場を設けたのは今から千年もの昔、山城醍醐寺の僧聖宝理源大師で、大峯修行の行者の為に開いたと伝えられえます。北六田側、六田側ともに柳の木が植えられ、現在も熊野の那智山を一番として始まる吉野への山岳修行の行程「大峯奥駆七十五靡」の七十五番の満行の地となっております。

 柳の渡しの由来は、この辺りは昔から川柳が生い茂っていたからで、その後に開かれた下流の「椿の渡し」上流の「桜の渡し」とともに、「吉野川の三渡し」として知られている所です。大峯修験の行者たちは、まず吉野川の川原に下りて水垢離で身を清めてから、新しい草履に履き替えて山路をたどりました。今の美吉野橋が架けられたのは大正八年で、それまでは、夏の水量の多いときには舟渡しで、冬になって水が少なくなる時には板橋がかけられて、多くの旅人が往来していました。大和平野の方から、あるいは紀州街道から吉野山を訪れる旅人はここで吉野川を渡り、心踊る花の吉野や、前途厳しい大峯修行への第一歩を踏み出すことになるのです。

(柳の渡し)

 

役小角の道

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 標高365m吉野山の台地上に立ち並ぶ町並みに大きく抜きん出て、金峯山修験本宗総本山・金峯山寺本堂蔵王堂はそびえたっています。桧皮葺きの重厚な屋根、軽快な反りを見せる軒の出の深さ、それを支える太い柱などを見上げると、まさに国宝建造物蔵王堂は、金峯修験道の根本道場にふさわしい大建築です。

 蔵王堂の柱の数は全部で68本。杉・桧・欅・松などの巨大な柱で支えられており、最も太い外陣の「神代杉の柱」といわれる物で周囲が3.6m。ついでそれに向かい合って位置する杉で、3.3mもあり、珍しい材としては、ツツジ・梨などといわれる柱が目を引きます。高い天井を支える列柱群も、内陣の二本の金箔張りの化粧柱を除いては、ほとんど白木のままで用いられ、修験道の生命をかけて修行する、大峯・熊野の厳しい森林の雰囲気をいながらにして感じさせます。

 蔵王堂の本尊は、いうまでもなく蔵王権現です。外から見ると蔵王堂はいわば覆屋にすぎません。内陣には高い格天井を突き抜けて、銅板葺きの巨大な厨子があり、その中を三つの間に仕切ったそれぞれに、過去・現在・未来の三世を救済するという、巨大な蔵王権現が三体祭られています。その表情は、荒行にあえていどむ修験者の信仰にふさわしい憤怒の形相に満ちています。

 外見は悪魔降伏の恐ろしい姿ですが、その心の中は限りない慈悲を秘めた仏達で、中央尊像は釈迦如来の権現(仮に現れた姿)で過去を救済し、背丈は7.28m。向かって右は現世を救済する千手観音菩薩の権現で6.15m。向かって左は未来を救済する弥勒菩薩の権現で、5.92mもある大きな尊像です。

(国宝  蔵王堂)

 

(重文 蔵王権現像)

 

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 孔雀王の呪法を修持し、巽しき験力を得て、現に仙となりて天に飛ぶ縁 

巻ニ十八

  役優婆塞は、加茂役公、今の高加茂朝臣といふ者なり。大和国葛木郡茅原の村の人なり。自性生まれながらにして知り博く学びて一を得たり。三宝を仰信ひて之を以ちて業とせす。毎に庶はくは、五色の雲に挂りて、沖虚の外に飛び、仙の宮の賓と携りて、億載の庭に遊び、蕊蓋の苑に臥伏して、養性の気を吸敢はむとねがふ。このゆゑに晩れにし年四十年余歳を以ちて、また巌窟に居て葛を被て松を餌ひ、清水の泉を沐みて欲界の垢を濯き、孔雀の呪法を修習ひて證に奇異しき験術を得。鬼神を駆使ひて、自在を得、諸の鬼神を唱して、催して日はく「大倭国の金の峯と葛木峯とに、椅を渡して通はむ」といふ。是に神等みな愁ふ。藤原宮に字御めたまひし天皇を傾けむことを謀る」といふ。天皇勅して、使を遣りて捉らせたまふ。なほ験力に因りて、輒く捕られず。故に其の母を捉る。すなはち伊図の嶋に流す。時に身は海の上に浮び、走くことが陸が履くが如し。体は万丈に踞り、飛ぶこととぶ鳳の如し。昼は皇の命に随ひて嶋に居て行ひ、夜は駿河の富岻嶺に往きて修ふ。然うして庶はくは斧鉞の誅を宥され天朝の辺に近かむことをねがひて、故に殺る剣の刃に伏ひて、富岻の表を上る。「斯の輿に放たれて憂へ吟ふ問、三年に至る。是に慈の旨を垂れたまへ」とまうす。大宝元年歳の辛丑に次るとしの正月に、天朝の辺に近かしめられ、遂に仙に作りて天に飛ぶ。吾が聖朝の入道法師、勅を奉り法を求めて大唐に往く。法師五百の虎の請を受け新羅に至る。其の山の中に有りて法花教を講く。特に虎衆の中に有りて倭語を以ちて問を拳ぐ。法師「誰れぞ」と問へば「役優婆塞なり」と答ふ。法師我が国の聖人なりて思ひて、高座より下りて求むれども無し。彼の一語主大神は役行者に呪縛せられ、今の世に至るまで解脱かれず。其れ奇しき表を示すこと多数にして、繁が故に略はくのみ。寔に知る、仏の法の修術の広く大なることを。帰り依まばかならず證を得む。

 

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1999年 (つながり175号より)

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 去る11月21日、第8回吉野歴史ウォークが開催されました。今回は「修験道の開祖 役小角の道」と題して、困窮する庶民の為難行苦行の末、金剛蔵王権現を感得した「役行者」を取り上げました。近鉄六田駅横の広場に集まった参加者は、午前10時、各地からこの為に駆けつけてくれた修験者6人による法螺貝の合図を元に、参加者は出発しました。

 一行は柳の渡しで一旦止まり、一の行場であるここで行者さんを青年部員6人が輿に乗せ、吉野川を渡るパフォーマンスを見てもらいました。次に参加者は六田から左曽・橋屋の一の坂を登り、長峰へと進みます。ここは昔の地道が残り文字通り「行者街道」とも呼べる道で、春にもなると桜並木が実に見事な道だったといいます。

 そして、山道を歩くと思ったより早く「吉野神宮」に到着します。ここでは、婦人部の皆さんの心のこもった「お茶の接待」に参加者は多いに疲れを癒しました。又ここは昔「一の蔵王堂」のあった所として、郷土史家の桐井雅行先生に講演をしていただきました。そしてここでは、法螺貝の音には様々な意味や合図があることを、先達を務めていただいた修験者の方々に実際に演奏をしていただきました。そして再び宿出の法螺貝の合図で、参加者は出発します。そして黒門を越え、いよいよ吉野山の町中に入ってきます。まず銅鳥居の下をくぐり抜けることになります。ここは「発心門」といって、ここより俗世間と決別する門だといいます。そしていよいよ巨大な仁王門が見え始め、修験本山蔵王堂に到着することとなります。

 ここで昼食と講演の後、趣向を凝らした「修験ラリー」の始まりです。これは、参加者に簡単な修行を体験してもらおうという企画です。法螺貝が鳴るかどうかを試したり、重い鉄下駄を履き5歩以上歩いたり、苦い霊芝を飲んだり、靴を脱いで青竹を歩いたり、氷の上に手を置いて辛抱したり、難しい呪文のような真言を唱えたり、直感を試すそれぞれの行場には、長い行列が出来ました。

 又吉野山一帯には、役行者を本尊とする塔頭(東南院・喜蔵院・桜本坊・竹林院)があり、それぞれの行者様を見て、スタンプを押していく「町中見て歩きギャラリー」も開催され、多くの参加者が様々な行者様を見て歩きました。又東南院・宝の家・山本英輔さんの家では、修験と関わりのある写真展。ビジターセンターでは、役行者の一生や、山上ケ岳での修行中に現れた様々な神々を切り絵で表した「田中道男展」がありました。

 又蔵王堂境内に設けた特設テントでは、ラリー参加者の記念品引渡しや、吉野の地場商品を販売するコーナーがあり、同時に吉野の茶粥を参加者に食べてもらうブースでは長蛇の列が出来ました。

 

 (輿に乗り吉野川を渡る風景)

 

 (吉野神宮での法螺貝のライブ)

 

 (桐井先生の講演)

 

 (なかなか鳴らない法螺貝)

 (むずかしい真言は呪文のよう)

 

 そしていよいよ今回のクライマックスの時間が近づき、3時前参加者は蔵王堂前に、次々とつめかけました。まず今回このイベントの為に、快く開放頂いた蔵王堂の田中利典師による、来年1300年大遠忌を迎える役行者と蔵王堂についてのお話に続き、戯曲「役行者伝説」が幕を開けました。

 (切り絵  役行者物語)

 

 ストーリーは、いつも役行者の傍らの控える前鬼・後鬼と行者との出会いの第一幕。そして苦しむ民衆を救うため山上ケ岳で修行し、ついに本尊の金剛蔵王権現を感得する第二幕の二部構成からなり、参加者はこの青年部が演じる「目で見る歴史物語」を食い入るように見つめ、終了時には延々と拍手が続き、鳴り終わりませんでした。

 

 (戯曲 役行者伝説より)

 この瞬間録音作業から、厳しい厳冬の夜中で練習し続けたスタッフは本当に頑張った甲斐があったとつくづく感じました。

 (戯曲 役行者伝説より)

 

(キャスト全員集合)

(キャスト全員集合)