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 伊勢街道沿いに発展したのがここ平尾の在所です。又、吉野町最古の貞享5年の道標が残るように、ここは高見越え伊勢街道と多武峰・奈良盆地への街道の分岐点に位置したため、宿屋もたくさんあり栄えていました。

 

 

 

 

 

 又ここは江戸時代、過酷な年貢を徴収しようとする封建権力に対して、農民が一致団結して代官所を襲撃するという一揆「龍門騒動」のあった所でもあります。文政元年、中坊領内14ケ村の農民が当地の代官所を襲撃、出役浜島市太夫を殺害するという事件が起きました。一揆は一日で終りましたが、その直後から過酷な弾圧がはじまり、取調べられた者千人、死罪4人、二十四ケ国払い4人、牢死した者が4人という悲しい結末を迎えたのでした。

 (旧代官所近くの幸神神社)

 

 (平尾の道標)

 

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 山口神社の祭神は、大山祇命で本来は山の神ですが、農耕に必須の水源の神としても祀られました。創祀は不明ですが、龍門岳の神霊をまつる祭祀場として出発したものと見られています。

 境内社の意賀美神社は、もと龍門滝の付近にあって岳の水神(竜王神)として信仰されてきました。この滝について本居宣長の『菅笠日記』には、「いとあやしきたきにて、日のいみじうてるをり、雨をこふわざするに、かならずしるしあって、むなぎ(うなぎ)ののぼれば、やがて雨はふるなりとぞ」とあります。

 当社横には伊勢街道が通っています。当時は伊勢参りや参勤交代で賑わい、境内には享保元年に徳川吉宗より寄進された灯籠が今も建っています。

(徳川吉宗寄進の石灯籠)

 

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 大名持神社は龍門川と津風呂川が吉野川に注ぐ中間地帯の妹山にあります。当神社の創祀は明らかではありませんが、背後の妹山を神体と仰いだ民俗的原始信仰に由来することは、この山が「忌山」とも呼ばれて樹叢へ斧を入れない禁忌的信仰が、現代になお生き続けている点からも伺えます。

 この神社は、すでに『三代実録』に「貞観元年(859)、大和国従一位大己貴社に正一位を授く」とあり、この段階で正一位の極位を授けられたのは、大和国では他に春日大社のみでした。

 この神社の西側の麓に、(左の写真の)自然石に彫った道標があります。

 又妹山と吉野川を挟んだ対岸にある背山は、日本の「ロミオとジュリエット」ともいうべき「妹背山婦女庭訓」の舞台でもあります。吉野川に阻まれた悲恋のイメージも、このコースの楽しみかもしれません。

 (大名持神社)

 

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 芭蕉は細峠を越え、この平尾を抜けて龍門の瀧を訪れています。ここにあの中国の龍門という地名があり、しかも李白の愛した瀧があると聞いて、どうしても芭蕉は瀧を訪れたかったに違いありません。宣長も芭蕉と同じくこの瀧を訪れたかったのですが、道案内をしてくれた人に、遠いからと言われて断念しています。この龍門の瀧の近くには、奈良時代に建てられた龍門寺の塔跡があります。また、吉野川で衣を洗っている女性の足を見て、心奪われ空飛ぶ神通力を失い、墜落したという久米仙人が修行したという伝承も残っています。これは、背後にそびえる龍門岳が神仙思想の仙境になぞらえていたからで、そのことは、葛野王が『懐風藻』の中に残した「遊龍門山」という漢詩からも伺えます。

 瀧を見学した後、芭蕉は再びこの平尾に戻り泊まっています。それは宿屋でなく、親切な農夫に泊めてもらったのでした。芭蕉は見知らぬ者でありながら、快くそして心暖かく迎えてくれた主人に感謝し、農家の家に咲いていた桜を見て、そして同じ吉野が舞台である謡曲「二人静」のシテの所作を心に浮かべながら詠ったのが、

花の陰謡に似たる旅ねかな

ではないのでしょうか。

 このように、龍門の民は昔から旅人を心優しく迎えてきた伝統がありました。「一度歩くと、再び神仙の里・龍門を歩いてみたくなる」 そんな魅力を持った里が龍門の里です。

 (平尾にある芭蕉の句碑)

 

(龍門の滝にある句碑)

 

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 この峠もやはり、多武峯から吉野に入る峠の一つです。『吉野町史』によると、「この道は金峯山詣でや吉野の花見客で賑わっていた。」と記されています。明治初年には旅館1軒、茶屋4軒を含む8戸がある集落でした。これは、中世以来奈良・三輪・初瀬から多武峰を経てくる旅行者がどんなに多かったか物語るものです。このような旅行者の一人に本居宣長がいました。子供に恵まれなかった宣長の父が、吉野水分神社へ祈願したおかげで出生した宣長は、自分のアイデンティティーを求める旅でこの峠を訪れました。

 明和九年(1772)、宣長四十二歳の春、門人知人4人を連れて訪れています。この時の様子は紀行文『菅笠日記』に記載しておりますが、その解釈について前登志夫先生は著書『吉野紀行』の中で、「近頃では遠い所の花だよりでも居ながら知ることが出来るが、それでも花開くと散るのが時として居様に早く少しの気候条件で素早く変化する桜は気がかりなもの。まして江戸時代のことである。伊勢から歩いて名張山を越えてくる宣長にとっては、吉野山の花の様子こそ心配だった。吉野山は竜在から吉野川を隔てて真南に位置する。まさに指呼の間である。ここから見える山上ケ岳が実にどっしりとしている。その右手に弥山の方へつらなる山塊が角をはやしたようにたかぶっている。そのあたりから南西に広がる熊野への山また山の眺望はまさに空の冥府であり、古代の常世国である。」と記されています。

 (龍在峠)

 

(龍在峠から見える冬野の景色)

 

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 ここは、多武峯から吉野へ抜ける二つの峠の一つで、標高700mという高所にあり、この龍門山塊にある峠の中でももっとも高い峠です。

 雲雀より空にやすらう峠哉

貞享5年(1688)二回目の吉野入りを目指した芭蕉が、初瀬泊まりの翌日の3月21日、多武峰を経てこの峠に辿りつき、その景色に感動して詠んだのがこの句です。ご覧の通り大変見晴らしがよく、パノラマのように広がる吉野連山の眺望は、芭蕉ならずとも心動かされるはずです。

 やはり、国中から歩いてきた芭蕉は大声で叫びたい衝動を押さえてこの句を詠んだのではないでしょうか。又この風景については、貝原益軒の『和州巡覧記』によると、「是より南山を顧み望めば衆山皆高し、就中大峯釈迦が岳尤も高し。其頂は西に傾きて見ゆる。(中略)此嶺より吉野山は坤(南西)の方に見ゆ。花の時は山白く見ゆる。山背の町家つづきて見ゆ。就中蔵王堂能見ゆる。」と記しています。あなたも、この眺望を前にして一句詠まれてみてはいかがでしょうか。

 

 (細峠からの眺め)

 

(細峠にある芭蕉の句碑)

 

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 菅 笠 日 記(現代訳)

 

 ことし明和の九年(1722)という年は、何というよい年であろうか。「よき人の吉野よく見てよしいいし、吉野よく見よ、よき人よく見」とお詠みになった吉野の花を見ようと思い立った。そもそも吉野山の花見の旅に出かけたいと思いながら二十年もたってしまった。来る春ごとにさしつかえがあって、その思いは心の内に古びてしまっていたが、そうばかりしてはいられないと思い起こして、出立しようということにした。(中略)

 この多武峯から流れ出る川もあるらしく、尋ねてみたいと思っているが今はいくことが出来ない。吉野へはこの川から左に折れて別れて行く。長い山道を登って行くと峠があり、そこには茶屋があって大和の国中が見渡せる所である。

 なおも同じ様な山道を行くと又峠に出た。ここからは吉野の山々がわずかでありが見ることが出来大変うれしく思った。明け暮れ心にかかっていた吉野の花の雲をようやく見つけることが出来たのは、とてもうれしいことであった。

 さて、下って行く谷かげ、岩をかんで流れる川の景色は俗世間を離れてとても清らかだ。多武峯から一里半という所にに瀧畑という山里があり、その名のとおり瀧のように川が流れ落ちるほとりにある村であった。又一つ山を越えた谷間で飛鳥の岡から上市へ越えて行く道に出た。今日は吉野まで行き着きたいと思っていたが、そうこうしているうちに春の日は早く暮れてしまったので、千股という山ふところの里に泊まることにした。こよひは、

   ふる里に 通ふ夢路や たどらまし ちまたの里に 旅ねしつれば  

 この宿で龍門の瀧への道を尋ねると、宿の主人の言うには「ここから上市へ直接行くと一里ですが、龍門の瀧の方へまわるとニ里あまりになります。瀧に行けば一里あまりもあり、又そこから上市へは一里もあります」という。

 この瀧はかねてから見てみたいと思っていたので、今日多武峯から行きたい思っていたが、道案内をしてくれた人がとても遠く、又道も険しいというので行くことが出来なかったのを、今聞くと多武峯から行くよりも、さして遠いとは思えないのに、とても残念なことだ。

 しかし吉野の花盛りが過ぎてしまうというようなことを聞くと心せかれて、明日瀧を行って見ようという人もない。そもそもこの龍門という所は、伊勢から高見山を越えて吉野へも、紀伊国へも行ける道で、瀧は道から八丁ばかり入った所にあるという。とても不思議な瀧で、日照りが続いたときに雨請いをすると、必ずその効き目があって、鰻が瀧を登るとやがて雨は降るという。

 

    立よらでよそに聞きつつ過ぎるかな 心にかけし瀧の白糸

 

 笈の小文における俳句

     ―三輪・多武峰・臍峠―

 雲雀より空にやすらふ峠哉 

    (峠の風にあたりながら一休みしていると、はるか下の方から、雲雀の 

                       さえずる声が聞こえてくる)

 

     ―龍 門―

 龍門の花や上戸の土産にせん

    (その名もかの中国の地の名勝に同じ、この龍門の瀧とそこに咲く美景

     を、酒のみへの土産話としようか。こよなく瀧を愛したのも、かの

     地の酒仙李白であったから)

 酒のみに語らんかゝる瀧の花

    (酒仙李白の愛した中国の龍門の瀧とその名も同じ、吉野の龍門の瀧に

    咲く花のさまなどを、酒好きの人々に語り聞かせてやろうよ)

 

    ― 桜 ―

 桜がりきどくや日々に五里六里

    (毎日、桜を尋ねて五里六里と歩きまわる。さても、我ながら殊勝な事)

 日は花に暮てさびしやあすならふ

    (花見に賑わった一日もようやく暮れようとしているが、桜の花のあた

    りだけはまだ明るさが残っているのに、傍らのあすなろはもう夕闇の

    中に沈もうとしている。明日は明日はと思いつつ、ついに老木となり

    ゆく、名もあわれに見栄えせぬ木の侘しさよ)

 扇にて酒くむかげやちる桜

    (花の木かげ、浮かれて能のまねごとをする人もある。扇で酒くむ所作

    ごとの、その上に花散りしける)

 

   ―苔清水―

 春雨のこしたにつたふ清水哉

    (しとしとと降る春雨は、木々の下を伝い流れて、このとくとくの清水

    となって湧き出るのであろうか)

 

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 この宮滝は、縄文時代・弥生に及ぶ大規模な複合遺跡ある所であり、吉野宮・吉野離宮伝承地とされている所です。

 『日本書紀』『続日本記』に記された吉野宮行幸は、応神天皇19年10月の行幸をはじめに、雄略2回・斎明1回・天武2回・持統33回(在位中31回)・文武2回元正1回・聖武3回の計43回におよびます。斎明天皇の2年、「吉野宮を作る」とあります。

 又吉野は『万葉集』に詠われる場所で、特にこの宮滝には、万葉の著名歌人が数多く訪れており、名歌を歌い上げた場所でもあります。

 天武天皇が、壬申の乱に勝って即位した8年目の679年5月5日、皇后(後の持統天皇)および草壁・大津・高市・川島・ 忍壁・志貴の六皇子を連れて、ここに行幸します。その目的は、神々に誓って天皇に忠誠をつくすことを盟約させる為でした。将来彼等の異心や離反のあることを恐れ、集権国家の強力な天皇政権維持のための盟約は、正にここで行われたとされています。

 (宮跡の吉野歴史資料館)

 

 (吉野宮のジオラマ)

 

 (壬申の乱の出陣のジオラマ)

よき人の よしとよく見て よしと言ひし

                吉野よく見よ よき人よく見

 

この歌は、天武天皇が吉野のこと、吉野に住む人間を詠んだ歌とされています。